人のこといえないよ...

  家内の運転で南区に出掛けるた時だ。途中の交差点か
 ら左折して来て私達の前に出て、遅い速度で走行しはじ
 めた。いつもとろい運転する家内も、次の交差点を青信号
 のままで通れるかなと心配しながら走行していた。
 すると信号が黄色になってしまい、その車は止まらないで
 交差点を右折して行ったのだ。あの車は信号無視である。
 「あーっ、いやだ。なんておそい車だろう。あの車の為に、
  この交差点通れなかった」と、家内が、文句をいいだした。
 私は、驚いたよ。何故って、家内も似たような運転している
 のに他人様の運転が気になることがあるんだなぁと。
 
 家内にいったよ。
 今まで家内の運転する車の後についた、人は同じような事を
 思っているんだよってねぇ。
 その彼女も昔は、従順でおしとやかな女性であったと記憶
 している。歳を重ねる程に、自分を確立し主張し始め今じゃ
 その面影いずこ。
 いえることは、自分の行動がいつも正しいとは限らないとい
 える。自分以外の人も良い悪いと、評価をするのだ。
 その事を覚えて置く必要があると知らされた。
 ここまで、偉そうにいってしまったが、家内からの反撃を
 どのようにかわしたら良いだろうか。
 これが問題だ。

                   春風するめ

下水道科学館に行ってきました(2014年3月23日)

札幌市下水道科学館が一般公開の日で行ってきました。

3Dの映像による説明がよかった(この部屋で)。

地下4階・2階みてから処理施設案内と説明を受けました

見学の最後に浄化をしている微生物を顕微鏡のモニターで説明うけました(光が逆光なって写り悪し)。子供さん連れが多く、壮年夫婦は二組だけだった。

知らないうちに、...

 雪降る真っ只中に「ビーィ」と、街路樹の上を見たらヒヨドリだ。
 去年の秋、家の周りの木を取り払ったのでリンゴを吊す事も出来
 なくなってしまった。
 それで「リンゴが無いぞ」と、叫んでいる気がする。
 気の毒とおもうが、いま、この場所に無いのが事実だし、見ての
 通り住みずらくなったんだ。あまり腹がすけないうちに他の場所に
 行けと...、冷たい心で言ってしまったよ。
 このヒヨドリをみて思い出す。

 2012年の8月に台湾に行った時の添乗員さんの話だ。「日本は
 綺麗な所で住み良いですねって」と、つづいて人口の話になった
 「台湾は、一平方キロメートル辺りもう少しで1000人の人口です
 よ」と。その時私は、「そうかい、ずいぶん狭いところに住んでいら
 っしゃるんだな」って単純にうなずいたことを。
 街を歩く人はエネルギッシュにあふれていて、あくせくしている感
 じもなかった。どこが違うのだろうか、一平方キロメートル辺りの
 人口が減り続けている日本。
 人が多いと言うことは単純に豊かだということなのだと思う。

 棲む環境にあわせないで生きていると、エサがないときのヒヨドリ
 のように泣き叫ごという事になる。
 そのようにならない為には、エサが無いかも知れないと疑ってたり
 する行動をとるのも生活の知恵では無いかと、一往かんがえたい。

春風するめ


2012年8月18日  お寺で笛を吹いていた老人、とつぜん日本の童謡を3曲きかせてくれた。
笛吹き終わって、感謝をあらわすのに言葉がわからないので思わず手を上げた。
それに応えてくれた人でもありました。
                       

家内の運転で護国神社に立ち寄った(2014年3月16日)

豊平川津対の道路を走行していた。左にハンドル切れば札幌の護国神社。
境内に入った.鴨々川に鳥が来ていないか見るのが目的。
車から降りると上から、ヒヨドリに似た鳴き声がした。
写真を撮るが、

こちらの写真で判別がつくだろうか。

境内の川にカモが居た。オスばかりだ

メスが1羽いた。オス含めてショット。

写真を撮った帰り道の運転は家内の世話になる。デコボコでない道を選んで走るようにと、祈る気持ちで乗っている。腰に響く。
良い一日であった。

あれ、ちょっと違うのでは

  家内が「チョコレートを買う」と、スーパーマーケットに立ち寄る。
 「会社の人達にバレンタインデーに合わせて渡す」というのだ。
 最近は、「本命チョコ」とか「義理チョコ」といったのがあったけど
 先日、テレビで「自分のご褒美チョコ」というのが売れていると報
 道されていた。
 これ見て、驚いたのが二つあった。
 まずは、家内が自分の年を考えないで「義理チョコ」を配る心境
 さ。もう一つは、自分にご褒美チョコが豪華で売れているという
 事だ。
 この問題に共通するのは、「自己満足」するだけで「新たな展開」
 など望めないと、変に邪推してしまった。

 邪推が邪推をよんで、どうでも良いことを思い出した。
 同じ長さの辺は正三角形。では、二つの辺の長さが等しい三角
 形を二等辺三角形というのを小学校で習った。
 それでは、辺の不揃いな三角形に名前があるのだろうかと。
 多分、あるのだろうと思うが。
 墓場に限りなく近くになったこの歳で、何で今頃気づく。

 もっと早くに、感じていれば人生もかわっていただろうに。

                       春風するめ

痛みが思考を変化させる...

  今年に入って腰の痛みが、ひどくなり我慢の限界に
 来ている。あまりの痛さに声を出すことさえ出来ない。
 病院に電話して、早めに診察してもらった。
 座ることも出来なく、床にヒザをつけるか立ったままの
 方が少し良い、こんな痛さに我慢を重ねているうちに、
 いつの間にか考え方まで変わってしまったのかと思い
 知らされる。
 今の痛みを解決したいため、周りの人の顔色とか雰囲
 気なんて見る余裕が無くなっている自分に気づいた。

 無事手術が終わり、思ったより痛みが早く無くなった。
 手術後のリハビリ三日目に、医者が「明日退院してくれ
 ないか」というではないか。さすがの私もビックリしたが、
 早く診察してくれたので了承したよ。
 なんでも、「手術を待っている人が続いている」というこ
 となので。リハビリの説明書をよこして、自宅でやってく
 れというわけだ。
 まるで、マネーゲームのようなビジネスの世界だと。
 計画性のある投資思考より、早く利益を得る投資家思考
 に通じるか。
 この世界も、これに準じていくのかと考えさせられたね。

                   春風するめ

恰好、かっこうつけて...

  年末の話だが、雪が降っている時にクルミの木の枝を、
 剪定にきた、何でこの時期にと腹が立った。
 このクルミの木は、市の街路樹と違うので人気者なのだ。
 秋の終わりころに落ちるクルミを楽しみにして1個2個でも
 拾って、楽しんでいる人達がいる。
 この姿を見て皆同じ気持ちなんだと思った。
 年齢層は小学生から年寄りまで、中には釣り竿を持ってク
 ルミを落としていく人もいた。
 そんなわずかな楽しみを壊すなって、いいたい。
 通行の支障にならない必要最小限の枝の剪定して欲しか
 った。が、根こそぎ切っていったのだ。
 情緒も無い、型どおりの役所に委託された業者の仕事だ。

 もう一つ、型どおりの仕事で綺麗になった一級河川だ。
 護岸工事して洪水も防げて川の水も綺麗になったのは認め
 るし恰好もよくなった。が、過剰に整備するのも如何なもの
 だろうか。
 以前は、春になったらカエルがいたからオタマジャクシが見
 えたし、秋に聞けたはずのキリギリスの鳴き声だって今は
 聞けない。どうなるのだろう。
自然の事を考えて対処しているそうだが、どこの都市でも
似たり寄ったりのことをしていると聞かされた。

かっこうよさに、注視するのも良いけど、自然と交通、それ
に隣近所との兼ね合いのバランスを図っていく事が求めら
れると思う。
無頓着な行動のつけの支払いは、誰が払うのだろうか...。

                    春風するめ

雪が降ってマメよ。お別れだ...

先々月マメがいなくなってから、今では雪も降った。
たぶん土に潜って冬眠したって北海道のこの寒さだ。南国
育ちのマメは、体力が持たないだろう。それに家を建てる
のに整地が始まる。私も、マメを捜さなきゃと時々はさが
しているのだが。
 今日は、次女の子供(私にしてみれば外孫になる)と散
歩しながらすることにした。外に出るのでジャンバーを着
せなきゃならない、それに苦労した。母親は、用事たして
いるので仕方なく。そのジャンバーの袖に手を出すのに手
間取った。散歩するより疲れる。
孫は、まだ片言をしゃべるところまでいっていない。孫の
手をつぎながら、雪でわずかに出ている雑草と枯れ草など
間を見る、木の雪囲いしてある庭に来ると。「マメよ、今
日もお前を捜したがどこに身を隠している」と、その胸の
想いを伝わらない事が感じてしまった。
 孫を、近くの公園まで連れて行った。公園の遊具で遊ぶ、
遊び方がわからない。小さい子が来ていると、声を出す。
何を言っているのかわからないが、楽しそうだ。
そんなことが分かる年寄りになった私か。
 マメを行方不明にさせてしまった家内の為に、孫に気を
遣うか。マメを散歩させ、この様な状態になっては全てが
無意味か。プロセスはよくても結果が悪ければ、やらない
方が良いというのは大人の世界か。
改めて、思う。
                    春風するめ

考えが不思議に見え 2

  先々日から、急に北海道も秋を思わせる天候になってきました。
 家内も、クルミの木に感謝の気持ちが大きいようだ。
 先日も、私が写真だけで「いいのでは」といったが言うことを聞かず
 絵を描いていた。
 その絵が出来た。家内がクルミを描いている姿を内緒で写し。
 家内に絵で無くてと、馬鹿にするような気持ちもあった。写真で無く
 気持ちで残すという、心を大事にしてやることによって、自分にも返
 って来る。待つと言う忍耐、愛情というものが返って来るのだと。
 むかし、誰かに教えられた気がする。

 家内が描いた絵を、内緒で見てみた。
 中々、良きできばえかやるなぁ。ひいき目かもしれないがそのように
 思った。
 私も、何かに感動なり、感謝を表現するものを形として残すことが
 家内のように出来るだろうかと、改めて考えされられた。

                        春風するめ

考えが不思議に見え

  暑かった夏も終わりに近づいた。クルミの木に実がいっぱいなっ
 今にも成熟したものが落ちそうな状態までになっている。
 この木も、11月には倒されその後に娘夫婦の家が建つ予定にな
 っている。
 家内は、このかしぐるみの木から毎年クルミをいっぱい貰っていた。
 どうしても、記念に何かを残したいという思いから絵を描いている。
 「写真でよいだろう」と、いったが納得出来ないようだ。
 
 この木からのクルミを植えて育った木がある。車の通る街路樹にし
 ている。市の街路樹と違う種類になっている。毎年、そのクルミを
 目当てに釣り竿をもってきて拾って行く人が何人かいる。
 クルミの下に車を止めてあると、落としたクルミが車体に当たって
 傷つく、そんなことにかまわずクルミを落とす人がいるから困るけ
 ど。一応私としては、クルミに残す礼儀を尽くしたつもりだ。
 そんなことを改めて、家内がクルミの木に思いをしのび残そうとし
 ている姿を見て。
 私も何か、大事なこと忘れていませんかと問われている気がした。

                        春風するめ